渡画楽吹 のこといろいろ。。。

「渡画楽吹」という屋号は、「渡鴉」と「渡り硝子」に掛けてみました。

"楽"しい事を想い"画"(描)いて"吹"いた硝子達がいろんな人の手へ"渡"って行く。

そんな気持ちでつけました。


*「鴉」は現在では、人に危害を加える悪者とされています。
でもその昔、もっともっと昔。
まだ人類が、自分達以外の魂あるもの達を大切にしていた頃、
「鴉」も大切にされていました。

自分の中のとっても深いところに共通する
「なにか」
があるのだと気になりはじめ、今もまだ模索しています。

その自分の中にある「なにか」を理解するため、そして、
自分が「なにもの」なのかを。
取り留めもない事や溢れてくる「なにか」を
少しづつ、綴っていきたいと思います。




●「つくる」ということ

 「つくる」ということ。それは「生きていく」ということ。
人は昔から物を作って生きてきた。火を起こす。畑を耕す。服を作る。
食事を作る。器を作る。その他色々。
「私何もできない」って人でも子供の頃に砂山を作って遊んだはず。
人は何らかの「作る」をして生きてきた。「手仕事」をなくしては
生きてはいけないと思う。

この「つくる」という意味をここに書き込みたくて仕方なかったのに
元々自己表現が下手で、言葉のボキャブラリーが少ない私は、どう記せばいいか
なかなか書けずにいる。
私にとって「つくることの意味」が、あまりにも深く大きなもので
未だ改革途中。
なので、ちょっとづつ書き足したり手直ししたりして、「つくることの意味」を
自分の言葉で伝えられればと思う。


私の「つくる」は、どうやら、親譲りの様です。物心付いた頃から、折り紙工作や絵を描いたり
こちゃこちゃと手を動かしている事が好きで夢中だった。子供ながらに漫画家になりたいとか
変な夢見る乙女でした(笑)妄想癖はあるし変てこりんな子で、親もさぞかし手を焼いた事だった
に違いない☆
そんな「つくる」を私は「硝子」という素材に見いだした。でも、何故かは判らない。
最初は平面専門だったのだけど、自分の才能の無さに愕然とし、手を変え品を替え…。まあ色々。

とにかく、今、判っている事は、『「つくる」を止めたら死んじゃう(笑)』って事ぐらいです。
これは10代の頃からず〜っとそうなんです。これも、また何故か判んない。
「つくる」って行為は「自己表現」みたいなもんで、作品を褒められたりなんかしたら、もう、
私を好きになってくれてるの?っとかって、勘違いしてしまう☆バカそのものです。




●「硝子」という素材

 硝子に取り憑かれて気付いたこと。
それは、「硝子」は柔らかくて、熱いもの。作り手にしか見せてくれない柔軟な性質。
「硝子」はきっとシャイな奴に違いない。

土物と違って、溶けたてを一瞬に形を決めてやらないと、固まってしまったら
もう後戻りはできない。原料は土物と同じでも性質の違いがハッキリしている。

「硝子は熱いうちに作れ」である。

新しいデザインのものを作るに当たって、私の場合、頭の中で何度も何度も作り始めから
出来上がりまでをシュミレーションしてから本番に挑む。器械体操やってた頃の癖みたいな。
下手にこっちが引っ張ったりすると、硝子は反発する。だから旨く硝子の動きを利用して
自分のイメージに近付けていく。(太極拳みたいなやっちゃ;)
一癖も二癖もある一筋縄ではいかない。。。とか思っていたらすごく素直な地球の物質。
引力と重力と遠心力と、地球の作用をもろ素直に受けている。
それこそ、硝子に触れている時は地球に触れているのと同じだと思う。
自然と一体化になる。そんな感覚が好きで「硝子」という素材に惹かれたのかも知れない。




●「渡鴉」について

 渡鴉=ワタリガラス。学名Corvus corax。英名Raven。

烏族の中で一番大きい。大きいもので体長約65cm以上にもなり、
ハヤブサやオオタカよりもビッグ。他の烏と違って、鳴き声がきれい。
「カッポ カッポ」と鳴く。
名前の通り、北海道から北極など北に渡り、移動しながら生活をしている。
冬期、北海道に少数渡ってくる。

渡鴉は、アラスカやシベリアのネイティブの人々にとって、
森を作った「創造主」として語り継がれ、「太陽をもたらす」とも言われてます。
アラスカを愛した写真家で、エッセイストの星野道夫さんの書、
「森と氷河と鯨」(世界文化社)にアラスカのクリンギット族から訊いた
「ワタリガラスの神話」を記してあります。

日本でも「古事記」や「日本書紀」などに「ヤタガラス」が登場します。
この「ヤタガラス」は「ワタリガラス」同様、神の遣い手でした。
ちょっとだけ違うのは「三本足」だということ。
なぜ三本なのかは「3」は、縁起の良い数字という事もあるんだろうけど、
何か他にも意味合いがあったのだろう。




●ワタリガラスの神話

 アラスカ・クリンギット族の神話では、ワタリガラスが海の中から上がってきた
大きな火の玉をタカに頼んで(ワタリガラスの飛ぶスピードでは無理があった為。
でも、ちょっとずるいよね(笑)取って来てもらい、その炎を世界に投げ入れ、
あらゆるものに魂が宿った…。(星野道夫の「森と氷河と鯨」から)
私の勝手な解釈だけど、その時、炎に包まれたタカが「サンダーバード」なんだと思う。

これ以外にもびっくりするほど似た話が各国に!
イヌイット神話が代表的だと思うんだけど、一番驚いたのが「ノアの方舟」にも
烏が出てくる事。その他を上げてみた。
「アポロンとコロニス」「イヌイット神話」「シベリア・チャクチ族の神話」
「北米ハイダ族の神話」「中国の神話」「中世ドイツのカラスの石」「イギリスの伝説」
「アイルランドのカラス伝説」などなど。




●月のうさぎ 太陽のからす

 ギリシャ神話では烏は太陽の黒点から飛び出したと語り継がれ、
太陽神アポロの遣いだったそうです。
これだけ見ても渡鴉が渡る土地同様、「ワタリガラスの神話」は北方に分布してるのが分かる。
「太陽神の遣い」という部分も同じなのだ。
こういった、昔から語り継がれている神話や伝説を調べていくと、
人類は皆繋がっているって事が良く分かる。

中国では、古くから太陽には三本足の烏があると信じられていて、月には兎があって
お餅をついてるといわれてます。「烏は日」「兎は月」。「金」と「銀」。「白」と「黒」。
なんかすごく意味深くて面白い。
日本も昔は「太陽に烏」があるという言い伝えがあり、提灯や茶碗などにもデザインが
もたらされていました。時代の流れかいつの間にか薄れてしまい、今では知っている人は
ほとんどいません。でも海外では「烏」をモチーフにしたものも結構みられます。




●八咫烏(やたがらす)のお話

 最も古い日本の書物「古事記」や「日本書紀」では、烏は太陽を司る神の遣いとされていて、
カムヤマトイワレビコ(のちの神武天皇)が東征の途上、
天から遣わされたヤタガラスの道案内により、熊野〜吉野の山中を行軍したという事が
記されています。

現在、和歌山県の熊野三山でも、八咫烏は神の遣いの烏として崇められ、
平安時代から様々な伝承が語られています。熊野牛王宝印(くまのごおうほういん。通称=おカラスさん。)
の烏文字が図案化された「お守り札」があります。
そして、東京都府中の大國魂神社では、毎年7月20日の「すもも祭」でしか手に入らない、
非常にレア(私にとっては。でも日本一メジャーかも?)な「烏団扇」「烏扇子」が販売されます。
これを、家の玄関に飾っておくと「悪い事が何も入ってこず、良い事ばかりが入ってくる」そうな。
マスマス欲しいのです!

八咫烏の「咫」は「あた」と読み、中国から伝わった長さの単位のひとつで、
親指と人差し指を広げた時の指先同士を結んだ長さ表すそうです。
最近話題のワールドカップでも、日本サッカー協会のシンボルマークになっているのが、
サッカーに興味がない私ですが、かなりそそられます。頑張れヤタ!




●「鴉」はほんとに嫌われ者?

 「鴉」っていうだけで嫌ってる人も少なくはない。実際に私が「ワタリガラスのストラップだよ」
といって見せたら眉間にシワをいっぱい寄せて、嫌そうな顔をされた事がある。
それも星野道夫さんの本を読んでた人がだ。とっても悲しかった。。。
でもきっとそれは、その人はまだ情報が少ない上に鴉の事をちゃんと理解できていないのだろう。
大半は鴉をよく知らない大人達が、間違った情報を子供達に伝えたのが原因だと思う。
あの巨匠ヒッチ・コックもその一人ではなかろうか…。
しかしながら、ヒッチ・コックの「鴉」は人間の恐怖心を衝いたとても素晴らしい作品
だとは思う。鴉は今や、世界中のスクリーンのあちこちに出演している。
死体や墓場に群がったシーンなんかには効果的。(なんだ。ひょっとして人気者なんじゃないか?笑)

鴉は確かに雑食なので当然「肉」も食べる。都会の鴉なんて焼き鳥が大好物
ときてるから「共食いじゃないか?」ってな感じ。ヘンな奴なのだ。
でも、人間だって「死肉」を食ってるじゃないか?生きたまま食べたりする人も。
人間なら良いのか?野蛮この上ないじゃない?矛盾だらけだ。
でもそう。私達人間も「生きていく為」、鴉達も、そして他の種族の動物達全て、
生きていく為には「食べる」という行為をしなければならないのだ。

だからお願い。そんなに鴉を嫌わないでやって下さい。

烏はあれでなかなか可愛い所があるんだよ。電線に逆さまにぶら下がったり、
落ち葉を地面に落ちるまでに飛んで行ってキャッチを繰り返したり。。。遊び大好きなのだ。
そして鳥族である印の、あの真ん丸なつぶらな瞳を!それに、鳥好きなら判るだろうけど
真っ黒に見えるあの羽は、太陽の光を反射してキラキラ虹色に輝くんだよ〜。
「鴉の濡れ羽」は昔々は貴重品だったんだってば。
ゴミを食い散らかすって言うんなら、人間が自分達が出したゴミをきちんと 処理すれば、
そんな事にはならないんじゃないか?烏が人間の残飯を掃除して くれてるって
思えば、そんなに腹も立たないと思うのだけど。。。それでもやっぱり駄目?
「鴉はずる賢いから」って言って怒る人いるけど、生きていく上で身に付けた知恵なんだよぅ。
大きいから恐いとか、小さかったらいいのにとか。。。変な比較。
それって単に、自分達種族よりちょっとでも「勝る」と気に入らないだけじゃない?
人間の方がもっとずる賢くって酷い事いっぱいしてるじゃないか!

現在。鴉だけではなく他の動物達も、人間達の身勝手な行動で危険に曝されている。
地球は誰かのモノではないのに。。。




●私の父のこと

   うちの両親は器用な人で、父は横文字でいうとこの「エンジニア」。
TVやオーディオ、ラジオ、はたまたインターホン、防犯カメラのモニターとか修理する人。(他にも色々。)
大手会社の下請けで、電気屋さんが修理品を預かりそれを請け負うってやつです。店はありません。
個人会社みたいなやつです。
結婚前は某百貨店員だったのが、「自分の好きな仕事で生計を立てたい」という夢を結婚後、
実現したのでした。

私の子供の頃は、主にTVの修理をしていたので町内でも一番にカラーTVがあった。TVの数なんて修理
終了後のテストも入れると6、7台は常にあった。家族一人に付き1台。チャンネル権の奪い合いはない。
動かなくなった電化製品など新しく買い替えるなんて事も、ほとんどなかった。全部父が復活させる。
父は何でも自分で出来る人だったので、長屋に住んでいた割には、風呂場や子供部屋の建て増しなんてのも
自分で寸法出して、大工さんに変身していた事もあった。
いつも、7時には家族皆が揃って夕飯ができる家だった。(食事時には父に躾けられた。箸の裏でよく
叩かれた☆痛いのよ;)その分、父は修理品を持ち帰り夜中遅くまで、休みの日も、時間いっぱい仕事を
していた。
いつもハンダの臭いがしていた。

趣味は「釣り」。よく明石に船釣りしていた。家に持ち帰った魚を自前の道具で、さっさとさばく。
ガシラの刺身に煮付け、特に荒のみそ汁が美味い!ベラは塩焼きか唐揚げに限る。馬面ハゲは水炊きが一番!
そんなだったから、私はちょと刺身にはうるさい。(笑)

そんな父ももう70を越えた。
65を迎える頃に喘息を煩い、その後、突然、左手足が痺れて動かなくなったので、病院で検査を受けた。
「パーキンソン病」だと言われた。きつい薬を服用しなくてはいけなくなった。とりあえず症状は抑えられては
いるものの、両足がいうことを聞かないので前進するのが大変困難。
今までシャキシャキしていた事を考えると、本人もちょっと不便に思う事があるのだろうが、今は隠居生活を
謳歌しているみたいだ。
(だからって、車は運転しないで欲しい。「枯れ葉マーク」着けてても危険だからやめて;)
歌好きなので、もう10年以上民謡と三味線をやっていたり、休日子供達と里帰り(って程の大層な
もんじゃない。河渡ってすぐだから近い。)した時なんて、PCにかじり付いて何やら作業をしている。
あの年で文明の利器を使いこなせる人は近所には居ないらしく、何かに着け頼られているらしい。
一度コンビニのカラーコピー機の使い方を教えて、と電話してきた人がいた☆
その人は忙しそうにしていた店員さんに声掛けにくかったらしく、父を頼ってきたのだ。(ちょっと笑える;)
毎日多忙の様である。

私は仕事一筋の父の背中を見て育ったので、男の人っていうのは「何でもできる」とかって勝手な解釈を
していたぐらい。そんな父の様な人と結婚したいなんて思っていた。

それで思い出したが。
私が小学校へ上がった時、どこからか譲ってもらった黒い自転車を女の子だし初めてのコマなし(補助輪なし)
だからと、パーツを解体しきれいに赤くペイントしてくれた。(昔は皆『おさがり』という名の使い回しで
なりたっていたもんだ。今の様にすぐに何でも『新品』はなかなか買って貰えなかったもんで…。)
当然私の宝物となり、うれしくって皆に見せびらかしたくって、毎日近所の公園に乗っていっては遊んだ。なんて事も。

父は世界一尊敬する人物です。



●私の母のこと

 母はずっと共働きで、そんな中でも好きな事をいっぱいしていた。忙しくても「楽しめる人」だ。
洋裁が得意で、私達姉弟のお揃えの服を作ってくれたり、幼稚園の発表会では(私が通園していた
幼稚園は何でも手作り重視だった。)他の子よりドレスに着いた花が多かったり、ピアノの発表会
(3年で止めたが。)のドレスも手作り。そのドレスの自慢を友達にして、母に酷く叱られ泣いた思い出がある。
どんなドレスだったか今も記憶に残っている。
料理も上手で、何かお祝い事がある度に「バラ寿司(チラシ寿司)」(私の大好物)をたくさん作って、
近所にお裾分けしたり。
それだけ聞いてると、とても「女性的」だが、結構おてんばな所があり、休日はもっと活動的。
高校時代ハンドボール部で部長もやっていた母。その運動会の応援団の団長もやっていたとか。
(学ラン姿の母の写真見せて貰った事あったが、非常に男前だった☆)
私が小学校へ就学すると同時に、PTAのママさんバレー&ソフトボールの掛け持ち。最終的にやっぱり部長。
休みなしだ。子供ながらに私は考えていた。
「この人の何処からこんだけのパワーが湧いてくるのか?」

母は何でもちゃきちゃきこなし、パキッとした人ではっきりモノを言う人だ。私が男の子にいじめられたと帰ってきたら、
「そんなもんパンパン〜ってやったらええねん☆」とこれだ。
おてんばの私に"女はつつましく"と父に言われ続けていたもんだから、当時の私の困惑なんて、母は知りもしないだろうけど(笑)
とにかく、母にはよく叱られた。お姉ちゃんとはつらいもんで、自分だけが友達と遊ぶなんて事は許されないのだ(笑)
友達と遊ぶ時にはいつもオプション(弟)付き。良い時もあれば、嫌な時が大半で、公園に置き去りにしてきた事があった。
(ひどい姉!)それで母に怒鳴り散らされた事もしょっちゅう。
赤い自転車(父が新品同様にしてくれた宝物)には続きがあって、いつもの様に自転車で幼馴染みのりえちゃんと
公園に行って散々遊んで、さあ帰ろうとしたら無くなってた!慌てふためき公園中探しても見つからず、
陽も暮れてしまい、遅くなってさらに母に叱られるのが恐かったので慌てて帰った。すると案の定、
母は鬼の様な顔で立っていて「何時やと思ってんの!」と第一声。私が泣きながら自転車の事を話すと、
「お前はいつもそうやって物無くすねん!自分で何処に置いたか判らんだけやろ!」とさらに怒鳴られた。
子供の頃は自分では大事なのに、大切にするが故に何故か何処へ締まったか判らなくなってしまう事だらけだった。
そんな私には、日頃の行いが悪いのだと思い知らされた。と同時に、自分が"嘘つき"だと母に思われているみたいで
とても悲しくなり、増々涙が止まらず泣きじゃくっていた。。。。。
結局自転車は、その日のうちに公園で見つかった。私が叱られているのを見ていた近所のお兄ちゃん
(といっても既におじさんだったかも)が、ちょこっと公園を覗きに行ってくれたみたいで、どうやら誰かが
勝手に乗っていって、また、元の所に乗り捨ててあったらしい。私が自慢たらしくしていたのが、ちょっと羨ましかった
に違いない。とその時は思った。

私は母が恐かった。自分が生まれて来なければ、母もこんなに恐い顔しなくて済んだんじゃないかと思うぐらい
嫌われてると思っていた。一度でも私を「可愛い」と言って貰いたかった。だけど母が大好きだった。
ほんとに子供の思考って自己中で、どうしようもない感情が溢れてて、複雑な生き物だ。
だけど、私も次第に大人になっていき、母の「偉大さ」を知った。

こんな母だがたくさんの苦労をしてきた。結婚当初、姑(おばあちゃん)小姑一人、義弟一人と
生活を共にしていた。きっと、家でじっとしてる事が苦痛だったので、共働きを選んだのだろう。
姑であるおばあちゃんは、口が悪かったので結構大変だったに違いない。だけど、そんなおばあちゃんを
最後に看取ったのは母だ。
私が小5か小6ぐらいから、おばあちゃんは入退院を繰り返してた。朝、母は家の用事を済ませて出勤。
仕事が終わると即夕飯の支度を済ませ病院へ走る。。。
その度、母の苦労は堪え難いほど多かったに違いない。
ちょうどその時期、思春期真っ直中だった私。母の手伝いをもうちょっと進んですれば良かったと後悔している。
本当に親不孝でごめんなさい。しかも早すぎるぐらいにサッサと嫁いでしまうし…;

今も激しく忙しくしている母。父と一緒に民謡、三味線を習い、和裁を習い、パッチワークをやり、
着付けをやり、組み紐作りを習いに行ってる。おまけにその為の授業料を稼ぐ為、夜少し働きに行って
いるらしい。(これはあくまで内緒で。ほんとは私がその分ぐらい渡してあげられればいいのだけど;)
孫悟空の様に毛を散らして分身の術でも使ってるのか?って思うぐらい、色んな事をやってる。
母がそんなだから、私は「まだまだだ。」なんて自己嫌悪に陥る。(勘弁してよ〜☆)
ほんと。母には頭が上がらない。

世界で二番目に母を尊敬している。

(2006記入)




←TOP






inserted by FC2 system